
—桑の葉が茂り、蚕たちが目覚めて葉を食べ始める頃—
春のやわらかな陽光が、桑畑の葉先をくすぐる頃。
冬の間、繭の中で静かに息をひそめていた蚕たちが、そっと目を覚まし、青々とした葉を口に運び始めます。
七十二候の「蚕起食桑」は、そんな小さな命の目覚めと、自然が育む営みを静かに映し出す季節です。
蚕は古くから、日本の暮らしに深く根付いてきました。
繭から紡がれる絹は、ただの布ではなく、命の営みと手仕事が織りなす美しい光沢を持ち、人々の生活や文化を支えてきたのです。 その価値は古来、金にも匹敵すると言われ、養蚕は農家にとって貴重な収入源であり、生活の安定をもたらす営みでした。
養蚕の歴史は5000年ほど前の中国に始まり、絹の技術は国外への持ち出しが禁じられていました。
シルクロードを通じてその美しさは世界に広がり、各国の商人たちは多くの困難を乗り越え、中国と交易を重ねました。 日本には弥生時代に伝来し、奈良時代には全国的に養蚕が行われるようになりましたが、当初は輸入に頼ることも少なくありませんでした。
江戸時代には幕府の殖産奨励により養蚕業は全国的に拡大し、幕末には革新的な養蚕技術が生まれました。
明治時代には良質な生糸の大量輸出が行われ、養蚕業は日本の近代化の礎となり、外貨獲得産業としても重視されました。
こうした背景から、蚕は農家にとって神聖な存在ともなり、東北地方をはじめ「お蚕さま」「おしらさま」「おぼこさま」「ひめこ」などと呼ばれ、家の守り神としても崇められました。
その静かな働きぶりは、人々の暮らしと深く結びつき、絹という美しい贈り物となって世代を越えて受け継がれてきたのです。
冬眠していた小さな命が、桑の葉の茂みへと姿を現すように、春の陽射しと大地のぬくもりの中で、蚕たちはまた新しい一年の営みを始めます。
目には見えないところで育まれていた生命が、そっと地上に顔を出す瞬間―― それは、静かで確かな季節の目覚めであり、自然と暮らしの調和を感じるひとときです。
春風に揺れる桑の葉の間で、蚕の小さな葉音に耳を澄ませば、命の息吹が確かに感じられるでしょう。 新しい季節とともに、私たちの心もまた、ゆっくりと動きはじめます。
蚕にまつわる小話


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