
新しい連載で「日本の季色」というので、初春の頃に例えられる「 白練(しろねり)」を書いた。
白練とは、真っ白く艶やかな絹に由来した日本の色だ。
蚕は冬時期は休眠に入ることで知られ、立春を迎えた2月はまさに休眠中の最中。それなのに、初春の凍てつく寒さの冬の美しさに例えられるとは、これは不思議なことと思う傍ら、その景色の浮かべた脳裏の向こう側。見た景色は、映画「あゝ野麦峠(1979)」にみた雪景色だった。
養蚕文化と人の営み
ー時代を生きる、歴史をつくるー
野麦峠が語るもの
長野と岐阜を結ぶ「野麦峠」。
映画『あゝ野麦峠』で広く知られるこの場所は、今なお「女工哀史」「過酷な労働」を思い起こさせます。明治から昭和初期という時代を見つめれば、それは単に「悲劇」のひと言で語れるものではありません。
明治維新後、日本は近代国家として列強に伍していくため、「富国強兵」「殖産興業」を国是に掲げました。近代工業を支える外貨を得るうえで、生糸は圧倒的な輸出品となり、国の生命線とも呼べる存在でした。
そうして養蚕は、単なる農家の副業ではなく、国家の繁栄を左右する産業となっていきます。
海外での需要
ヨーロッパやアメリカでは産業革命で機械織機が普及しており、絹織物需要が高まっていました。ちょうどフランスなどでは蚕の病気(微粒子病など)で養蚕が打撃を受け、日本の生糸が代替として求められました。西洋の列強に伍するため、まさに国をあげて「命綱」としての製糸業に賭けた時期と言えます
この大きな時代の流れの中で、政府は製糸工場を建設し、品質改良や技術指導を行い、蚕は「国を富ませる生き物」として位置づけられていきます。寒村の娘たちは家族を支えるため、そして村の未来をつなぐために峠を越えて工場へと歩き、長時間労働や劣悪な環境、故郷を離れる孤独――それは身を蝕む過酷な労働。
そうして、彼女たちの手から紡がれた絹糸は、単に輸出品である以上の意味をもちました。それは国家を支える外貨となり、鉄道や学校、近代的な都市を生み出す礎となったのです。
蚕とともにあった暮らし
明治以前、日本の農村にとって養蚕は暮らしを支える重要な収入源でした。蚕が繭をつくり、それが糸となって家計を潤すことから、人々は蚕を「おかいこさま」「おしら様」と呼び、敬意と畏れを込めて接してきました。そこには、単なる労働の対象を超えて、家の繁栄をもたらす存在への感謝と信仰が込められていたのです。
養蚕には大きな手間と労苦が伴います。朝夕の桑やり、温度や湿度の管理、病気の予防――そのどれを怠っても成長に影響し、収穫は減ってしまいます。だからこそ、家族総出で蚕の世話にあたり、蚕室には常に人の気配と緊張が漂っていました。
やがて繭をつくる時期になると、家の中には「まぶし」と呼ばれるかすかな音が広がります。それは人々にとって収穫の近づきを告げる合図であり、安堵と期待を込めて耳を傾けるものでした。音そのものが美しいというよりも、その先に得られる糸と収入、ひいては一家の暮らしを支える力が感じ取られていたのです。
しかし蚕は、経済を富ませる存在であると同時に、自らの命を差し出す存在でもありました。繭をつくると同時にその生を閉じる姿は、自己犠牲的であり、儚く、美しいものとして受け止められました。こうした感覚は明治以降、殖産興業の柱として養蚕が国の経済を支えてからも、農村の暮らしの中に根強く息づいていました。
つまり蚕は、国家にとっては「経済の要」であり、農村の人々にとっては「いのちを与えてくれる存在」として畏敬と信仰の対象となったのです。この二重性こそ、近代日本における養蚕文化の特異なあり方といえるでしょう。
養蚕の営みは信仰とも深く結びつきました。東北地方では蚕を守護する神として「おしら様」が祀られ、布をまとった像を家に安置する風習が広まりました。生活を支える養蚕が神聖視された背景には、人々の暮らしそのものが蚕に深く依存していたという現実があったのです。
絹と「道」がつないだもの
野麦峠を越えて運ばれたのは、娘たちの働きだけではありません。彼女たちが命を削って紡いだ糸は、やがて街道を通じて全国へ広がり、さらに横浜港から海を渡って世界市場へと流れていきました。
中山道、甲州街道、そして野麦街道——。これらの道は、単なる地方の山道ではなく、日本の近代経済を動かす「血脈」でした。峠を越えて繭を背負う人々、馬に荷を積む商人、宿場で休む旅人。その一歩一歩が、地方と都市を結び、日本と世界を結んでいったのです。
こうした街道には、想像を超える物語が刻まれています。
たとえば江戸から京都へと続く道を、かつてインドから渡来したゾウが歩いた記録があります。異国からやってきた巨獣をも通すことができた街道は、人々の努力と工夫によって切り拓かれ、支えられたものでした。人の背や馬の背に繭や絹が運ばれた道と、国を越えて歩いたゾウが通った道が重なるとき、そこには「人間の営みの力」が見えてきます。
絹は単なる繊維ではなく、人と人を結ぶ絆であり、文化を伝える橋でした。
道は物を運ぶだけでなく、情報や風習を伝え、笑い声や歌声、祈りや希望さえも運んでいました。そこに生きた人々の足跡こそ、歴史を紡ぐ確かな証です。
天皇家と希少な蚕のいのち
現代においても養蚕文化は細くとも確かに受け継がれています。皇居の紅葉山御養蚕所では、今なお天皇陛下自らが蚕を育て、「小石丸」「白浜」「越後」といった貴重な品種の保存が続けられています。
とりわけ「小石丸」は奈良・平安時代の裂地復元に欠かせない極細の糸を紡ぐ品種で、今では天皇家の養蚕によってのみ命脈を保っています。かつて村々で当たり前に行われた養蚕は、いまや限られた技術と環境のなかで静かに受け継がれているのです。それは文化財保存にとどまらず、「いのちの連なり」を絶やさぬための営みでもあります。
おわりに ― 人の営みと時代の証
養蚕の歴史は、時に過酷な労働や犠牲の物語として語られます。
しかし、そこに生きた人々はただ耐え忍んでいたのではありません。彼女たちは時代の先端に立ち、日本の未来を切り開く力を担っていました。歴史は、誰かが与えてくれるものではなく、人が築くもの。その足跡が確かに今に残っています。
「手しごとの尊さ」は、日本の強さの証でもありました。大企業だけでなく、地方の農家や中小の工場、小さな職人たちが積み重ねてきた技術こそが、国を支えてきたのです。繭から絹へ、絹から織物へ——その細やかな手の営みは、近代日本を世界とつなぐ大動脈となりました。
しかし今、時代は変わりつつあります。戦後から続いた「大企業優先」の流れのなかで、中小企業の力は見過ごされ、コロナ期を経て多くの小さな営みが失われていきました。かつて輸出され誇られた日本の技術も、いまや海外企業の利益に組み込まれています。
ああ、人の営みとは何なのでしょう。
養蚕の歴史が語るのは、ただの昔話ではありません。人が懸命に生き、手で支えた時代の証です。日本はどこに向かうのか。私たちは、この「営みの力強さ」を未来にどう受け継いでいけるのか。
その問いを投げかけることこそが、養蚕文化を振り返る意味なのかもしれません。

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